冷たいシーツが頬に触れる。

 薄い覚醒が続いている。指先を少し動かすだけで、覚めてしまえるくらい。けれどあえて、しない。
 そして記憶か夢か、私の視点で映像が流れる。

 塔に併設する書庫で、陛下と一緒に数冊の本を探している。私に「天帝」を継がせた陛下だ。
 書庫にある本は、当然かなりの量。
 背の高い本棚を相手に、私は梯子を上る。その先に、目的の分類があった。
 並んだ本の背を見て、目的に適う本を二冊、取る。慎重に梯子を降りると、陛下が五冊の本を手に待っていた。
「これで大丈夫でしょうか」
 持っていた本を陛下に渡す。陛下は五冊の上に、二冊、積んだ。かなりの量になったから、陛下は両手で本を持った。
「うん、十分だ。これで研究がはかどるよ、ありがとう」
 陛下が微笑む。私は頭を下げる。
「では、戻りましょう。間もなく日が暮れます」
 私は入り口の方へ向かおうとしたけれど、陛下は立ち止まったままだった。振り返ると、光を背に陛下が立っていた。窓から夕陽が差し込んできている。陛下のふちが、赤くにじむ。へいか、と言おうとしたけれど、先に言葉を発したのは陛下だった。
「お前は、俺の跡を継ぐんだよ」
 陛下の表情は、読み取れない。けれど、やさしい声だった。
「私の兄上では、ないのですか」
 言ってしまってから、何をバカなことを私は言ってるんだろう、と思った。私の兄が天帝を継ぐなんて、一番ありえないことなのに。
 当然、陛下はかぶりを振る。
「お前が継ぐんだ。分かっているんだろう?」
 ひとつひとつの音を明確にして、陛下が言った。

 ええ、分かっています。一番最初に言われたのだもの。
 他の誰でもないお前が継ぐんだ、と。

 いったい、どれほど昔のことだっただろうか。色あせるでもなく、正確な気がする色彩とともに時々思い出す、ひとつの風景。

 それから一ヶ月と経たないうちに、陛下はいなくなった。ほんとうにきれいに、突然、いなくなった。陛下の私物もなにもかも、痕跡なんてまったく残さずに。あの人は本当にいたのだろうかとすら思えてくる。
 陛下がいなくなった瞬間が、「天帝」を継ぐときだった。それが私と陛下の約束だった。

 陛下を失った瞬間の私が得たものは、ただの喪失感。つまりプラスマイナスゼロってことになるのかしら。
 陛下を失ったことから、逃げることなんてできなかった。どれだけ何をどこを探そうとも、何も見つかりやしない。だというのに、いまだに探している。どうにかしたいのにどうにもできない。
 いないのは分かっている。心のどこかで、なんてことじゃなく、思いきり現実として分かっている。「陛下はもういない」って、心も身体も分かっている。はず、なのに。
 その上、生きているかどうかも分からないのだから。

 陛下は、変な人だった。兄と暮らしていた私を引き取り、さまざまなことを教えてくれた。
 また、口を開けば変なことを言っていた。
「空に届くような豆の木は、いったいどれほどの栄養を必要とするのだろうね? 周囲の植物は枯れてしまうのではないのかな」
 どうとも対応できない私は、微笑むしかなかった。

 不思議な人だった。大人びた対応をしている時もあれば、妙に子どものような笑い方をすることもあった。魔界や天界の人と交渉している時なんかは、黒幕みたいに見えることもあったっけ。長い間一緒にいて、結局なにひとつとして分からなかった。

 ―――お前は俺に似てちょっとばかり変だから、受け入れられることは少ないと思う。
 たとえばこの世界が繰り返されているものだとして、今がそれの2回目だとしたら、お前は見事に正解にたどり着けるだろう。いや、何回目でも、お前なら大丈夫だよ。お前には最後まで行く権利が、むしろ義務がある。

 いなくなる前の晩にそう言った陛下は、私の頭を撫でてくれた。
「今は分からなくてもいい。最後に気づけばいいんだよ」
と、付け足して。

 いつの間にか、思考は混濁したものに変わっていた。起きている。けれど、目を閉じている。
 目を開くタイミングがつかめない。金縛りにあったかのよう。

「ねえ陛下、起きて」
 ルカの、突然の声。ドアの開いた音なんかしなかったのに。
 目を開けて、起き上がる。眠気はないし、わずかでも眠っていたとも思えない。普通に活動していた時の延長線上のような動きができる。
「どうしたんですか」
「どうした、って……あのねえ、ちょっと休むって言って、もう夕方なんだけれど?」
 ルカはため息をついて、眉間にしわを寄せて私を見た。
 一瞬、そのしぐさがレンさんに似ている、と思ってしまった。お互いがお互いを見たことはないはずなのに。

 記憶の映像が流れる時間は、現実のそれとは違う。一瞬が永遠、もしくは永遠が一瞬だ。
 再生速度がまるで現実の時間とリンクしないから、困る。

「ねえ、ルカ。もしも」
「ねえ、陛下、もしも、なんかないよ? 分かってるくせに」
 私の言葉をさえぎって、ルカは微笑んだ。妙にやさしい、笑い方で。
「ええ、そう、ですよね」
 適切な言葉が思いつかなくて、あいまいな頷きで返してしまう。

 もしも、私があなたに「天帝」を譲り渡すと言ったら、どうしますか。
 なんて遊んでるような言葉。そうすれば世界は、きっと魔界の王の思い通りになってしまう。
 ―――でも、そんな「もしも」なんてない。ルカなりの否定の言葉だ。継ぐ気なんてないよ、という。
 もしも、という言葉は、希望か絶望しか示さない。それなりの「もしも」という仮定なのだとしたら、仮定する意味はない。

 燃えるような空が視界に映る。ずぶずぶと沈んでいく夕陽。
 私の白い部屋を染める、色。

「ああ、そうそう。夕食の時間だよ。あたし、それで来たの」
「では先に行っていてください。私は着替えてから行きます」
 ルカは頷いて、私の部屋を出て行った。

 クローゼットに手をかける。扉の裏には鏡がついている。
 鏡に映る私の顔は、無表情だ。鏡面に触れると、ひやりとする。やがて温度が混じり、冷たくも温かくもなくなる。

 このまま、とけてしまうのではないかしら。そうしたら私は、どうなるの?

 鏡の向こう側は別の世界なのだろうか。いいえ、もとよりこの世界に現実感なんて感じちゃいない。ほとんど他人の感覚とすら思えるくらいに。
 そう、ほしいのは現実感。
 今の状態は、まるで無意味に繰り返した言葉が意味を喪失してしまったかのよう。白々しくも不明な意味を、どこまで追求すれば、あるいは離せば、理解することができるのだろう?
 私の元を離れない感覚は、変わらないまま。

 もしくは。

 夢だ、と。
 これは夢だ、と。

 誰かがそう言ってくれるのをずっと待っているような気がする。
 でもそれは覚めるのではなく醒めるのでもなく、いっそう深く別の場所へ行くための言葉。
 無限にも感じる階層、そのひとつとしての現実なのだとしたら、私はどこを「世界」と呼べばいい?