ルークは煙草を石畳に落とし、踏んだ。もう何本分、そうやっていただろうか。散らばった灰と吸殻が、たまっている。今日の分だけではない。雨ざらしになったものがいくつか、周囲に散らばっている。
btcの庁舎の裏手は、ルークがよく行く場所だった。気に入っているわけではない。仕事をサボるための適当な場所を探すのが面倒で、いつもここに来るだけだ。それでも時々、上司がふらりとやって来ては文句をたれることがあるが。
また1本取り出してくわえる。火を点ける。深く吸って、煙草を口から離す。吐き出した煙が上昇していくのを、ルークはぼんやりと眺めていた。
第参課の仕事がないわけではない。今のところ部下で事足りる仕事ばかりだから、こうしている。
主に盗犯罪を扱う第参課において、忙しいと感じたことはなかった。ルークは主に、部下や上司の仕事への同行をしていた。ほとんどが、警備と事後調査だった。
治安維持組織であるbtcのベースは、カイロス教だ。移民から広がったこの宗教は、いつの間にかソルスティスという土地に完全に根付いてしまった。カイロス教は、現在を最優先する神カイロスを信仰する一神教だ。戒律を守ることを生きている間の義務とする、厳格な宗教である。
元々コネで入った組織だから、ルークには、信仰心も忠誠心もまるで無い。
ただ、組織に所属しているだけだ。そうやって過ごしてきて、いつの間にか課長補佐。肩書きには、自嘲気味になった。何が補佐だ、と。課長の補佐らしい仕事をした覚えは、全くない。課長補佐以前に、まともに仕事をした回数なんて、btcに入ってからの9年間でも数える程度だ。それでこの待遇なのだから、今更、真面目に仕事をする気にもならない。
ルークは特に何かを考えるでもなくぼんやりしていたのだが、足音が聞こえて眉をひそめた。
「ずいぶんと長い休憩時間だな、ルーク」
低いしわがれた声が、不機嫌そうに言う。ルークの上司、ヒルトだ。ルークの所属する第参課の課長であり、btcでは古参の部類に入る。50代前後の落ち着いた風貌で、丁寧になでつけられた頭髪は、白髪混じりだ。btcの制服をきっちりと着こなしているから、真面目そうな印象をあたえる。
ルークはヒルトを一瞥すると、すぐに煙草を口から離し、煙を吐いた。
「やあ、課長。今日は犯罪が少ないんですよ。いいことじゃないですか。何よりの平和の証だと思いません?」
おだやかな笑みで返すルークに、ヒルトは顔をしかめた。
「堂々と嘘をつくな。さっき、お前を探している奴がいたぞ。報告事項がある、と言ってな」
「ああ、何となく想像がつきます。もし、この後そいつに会ったら、僕は出てるって言っておいてくださいね」
「どうして私が?」
「なんだ、課長は面倒くさがりですね。それくらい、言ってくれないと困りますよ。何のための上司ですか、使えない」
ルークは舌打ちをして、煙草の灰を落とした。
「そこまで言うのは、いまだにお前くらいのものだよ。他の部署だったらとっくに辞めさせられていただろうに」
第参課に縁の深いツテでbtcに入った、ルークだ。基本的には、第参課では何をしようと辞めさせられることはない。だから増長しているとも言えるし、仕事をする気が起きないとも言える。
「それならそれで、どこか別のところに潜り込むまでです。ツテには困りませんからね、僕は」
ルークは、目を細めてヒルトを見た。
ルークとヒルトの付き合いは長い。ルークが第参課に配属された時からだから、もう9年になる。お互いの性格は、もうほとんど把握している。ルークの態度がいくら干渉しても直らないことは、ヒルトも重々承知の上だ。そしてルークも、いくらずさんな対応をしてもヒルトの態度が変わらないことは分かりきっていた。最近では、こういう場所でもなければ話をしない。他の者がいる場所での会話は、業務連絡のみだ。
「住むところはどうする。btcの寮は出なければならないぞ」
「女のところに潜り込めばいいだけです。何も困ることはありません」
ルークは、短くなった煙草を地面に落とした。すぐに踏みつけて、火を消す。
「その、女のことで私はいつまで共犯者になればいいんだ」
「僕が飽きるまで、ですかね。飽きそうにないですけど」
「最後に殺したのはいつだ」
ヒルトが、声のトーンを落とした。
「随分と嫌な聞き方をしますね。課長も覚えているでしょう、今月の初めじゃないですか。ええと、あれで5人目かな?」
「殺さなければならなくなるような、面倒な付き合い方をするな。……お前、いつか地獄に落ちるぞ」
ヒルトの言葉に、ルークはくつくつと笑った。地獄ね、と何度か口中で呟く。
「構いませんよ。会いたい人がいるんです、地獄にね」
ヒルトが、ため息をついた。そのまま、無言の時間が過ぎる。
「救われんな、お前は」
ひときわ低い声で、ヒルトが言った。
「救われたいとも思っていませんよ。救われるということの定義は、人それぞれ違います。それなのに、宗教の方で一概に「救済」を定義するのはなぜでしょうね? 「これが救済だ」と最大公約数を言われて、よく納得できるものだなあと思いますけどね」
ルークは、無表情に一気に言う。
「変わらんな、お前は。ここに入った時からそうだった」
ヒルトは、ルークを半目で見た。口を開いたところでルークに手を突き出され、制止する。
「昔話は勘弁してくださいよ。嫌いなんです、そういうの」
「少しは遠慮した物言いをしろ。それだから、上層部に煙たがられるんだ」
「ああ、僕は喫煙者ですからね。仕方ないでしょう」
また、ヒルトがため息をついた。何か文句を言おうとしたようだが、かぶりを振って、止めた。
「私は戻るぞ。休憩で、席を外しただけだからな。お前もそろそろ戻れ」
ルークは、笑うだけの曖昧な返答をした。
「今日の会議。課長は出席されるんでしたっけ?」
「ああ、恒例だからな。出ないわけにはいくまい」
そうですか、と、ルークは会議室の方向を眺めた。会議室は、裏手からだとよく見える位置にある。磨かれたガラスには、雲が映り込んでいる。一瞬、光が反射した。
ルークが視線を戻すと、ヒルトは背中を向けて歩き出していた。向かっているのは、部署に一番近い出入口の方面。部署に戻るようだ。
「お気をつけて」
立ち去るヒルトの背中に、ルークは声をかけた。ヒルトは返事をせず、そのまま庁舎の正面入口へと歩いて行った。
ルークはもう1本煙草を吸おうとしたが、箱の中にもう煙草はなかった。舌打ちをして箱を握りつぶすと、ヒルトが向かった方面とは逆へ歩き出した。